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目次
遅いインターネット/宇野 常寛
この本は、考えるきっかけや、考えるべき議題をくれる作品です。したがって、これを読めば答えが出るというものでも、すっきりするという類の書籍ではありません。
本書の中で登場する議題は数多いため、人によって、議題と感じたところ、感じなかったところはそれぞれあるでしょう。読者一人ひとりが、この作品に触れ、デジタル社会との付き合い方を自分の頭でしっかり考えようとする姿勢が大事であると感じました。
私は、自分の頭で考え、自分なりの結論を出していく過程が大好きです。
本書を、「問題提議の書」と考えている私としては、自分の価値観に改めて向き合ううえで、「考えることで、調べることが増え、知ることが増える」という、まさに、「遅いインターネット」を実現している書籍であると感じました。調べさせるための工夫が各所にちりばめられているからであり、大衆に流される単調な人間には、「この書籍すばらしい」と単純には、語ることができない文章となっているからです。
そのため、本書を読み進めるにあたって、言葉の定義など、たくさん調べましたし、積み上げてきた知識と紐づけながら、ページをめくりました。
本書に、触れる際には、解決策を求めるのではなく、疑問を求めていくハングリー精神を大切に、向き合って頂ければと思います。私は、突き刺さるテーマが多いのが、本書の魅力であると感じております!
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本書で語られていること
インターネットの発展により、考えない「愚民」が増え、その愚民を先導しようとする「カルト」の勃興を「速いインターネット」が後押ししてしまっているという風刺を行い、私たちは、問題から目を背けるのではなく、しっかり自分の頭で考え、「遅いインターネット」の使い方を歓迎しようというのが、本書が導こうとする本質的な結論のように感じました。
その結論に導く過程でのポイントは、以下の3つだと考えます。
順番に、解説していきます。
①民主主義の危険性を考えてみよう
②時代はどのように変化してきているか知っておこう
③これからの時代に求められるインターネットや共同幻想論との向き合い方を考えよう
① 民主主義の危険性を考えてみよう

まず、本書の重要なテーマの一つが、「民主主義との向き合い方」を考えるというものです。
民主主義が陥る危険性や、リスクについて触れその解決策として、3つの方法を提示しています。
それでは、民主主義のリスクとは何か?
民主主義が陥るリスク
2016年にドナルド・トランプが、下馬評を覆して、アメリカ大統領選挙に当選しました。
なぜ、ドナルド・トランプは当選できたのでしょうか?
それは、大半の人間が不合理だからです。
今、世界では、「GAFAM」(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)をはじめとするデジタルプラットフォーマーが、世界中をつなぐことで、 世界の概念的な壁は段々と溶けています。情報に自由に触れ、発信することができるインターネット技術の発展により、誰かの意見を借りて、まるで自分の言葉のように、発信することに存在意義を感じている人を増やしてしまっている現実もあるでしょう。
もちろん、インターネット技術の発展により、壁は取り払われ、優秀な人たちは、より優秀な働き方を実現し、社会変革を起こそうとする流れもあります。
しがし、人間の大半は、そう優秀な人たちばかりではありません。世界は高齢化に向かっているため、むしろデジタルを使いこなせない層のほうが、まだまだ多数派を占めているでしょう。
世界は二分されているという考え方が大好きな人たちがいるのも事実ですが、実際には、「優秀な人たち(能動的に考える人たち)」か「何も考えない人たち(受動的に情報を受け取る人たち)」のどちらかではなく、多くは、この中間層、つまりは、「考えているつもりになっている人たち」が大半を占めると言えるのではないでしょうか。
このあたりは、ファクトフルネスにて、痛烈に打ち明けられていた話であると思います。
[getpost id=”753″ title=”ファクトフルネス” target=”_blank”]
ここでいう”つもり”とは、空気に支配されることや、誰かの意見を借りて、発信することで、安心したいという人たちのことを指しています。
そして、この中間層以下の人々は、潜在的には、優秀な人たちとの格差に気づいているため、
「このままでも大丈夫なんだ」「安心した」
という安心材料を得るために、安心の「フェイクニュース」や、カルトな情報をあえて信じ込むことで、格差が広がっているという問題から目を背けがちです。
そんなときに、登場し、活躍するのが、「ドナルド・トランプ」や「ヒトラー」などの象徴的な人物です。

フェイクニュースを流し、「壁を作るべきだ!」「人種の多様性は歓迎すべきではない」などの発言を、一部は嘘であると潜在的には、理解しながらも、安心材料を心のよりどころとして、依存してしまうというわけです。
民主主義の政治形態は、支持する数によるため、こうした嘘を流す先導者を祭り上げれば、国家は弱体化してしまうのではないかというのが、民主主義の危険性です。
「GAFAは、データにより世界を支配している悪だ」という陰謀論や、「GAFAは正しい納税をしていないから悪だ」という論点のすり替え、「消費税はもっとあげるべきだ」という日本経済の前提を見誤った指摘、「国債を発行し続けたら日本が破綻する」という大衆への迎合なども同じような話ではないでしょうか。
実際は、その存在が、社会的な価値を向上しているのかどうかに目を向けるべきではないでしょうか。
一人ひとりが、考える力をなくし、信じたい情報だけを受け入れ、安心するというのは、何かに負けている時の楽観視にも似ていますよね。
このあたりは、失敗の本質という名著にて、日本軍が、「精神を高めればなんとかなる」という強引な組織人事や、実力よりも組織に対して、前向きな発言をして迎合しようとする人材を抜擢した話、日本軍は優勢な状況にあると国民を安心させるフェイクニュースを流したという歴史からも感じ取れることではないでしょうか。
格差を広げないことで、安心したいがために、「壁をつくろう」という考え方は、中国共産党がデジタル技術を統治に活用し、デジタルによる監視を行うことで、反逆者を排除しようとするいわゆる「デジタルレーニン主義」や
進化は遺伝的変異により、優秀な遺伝子が残り進化していく自然淘汰的なプロセスを段階的に歩むのだから、生活環境は急に変わる(発展する)べきではないというような考え方、いわゆる過剰な「ネオダーウィニズム」信仰を後押しする流れにあるようです。

そもそも「壁をつくろう」という提案も、”壁をつくらなければ”民主主義は機能しないからです。なぜなら、民主主義は、ある範囲(基本的には、国家であり、同様な価値観をもつまとまり)の中での多数決により政治を行うのですから、デジタルにより、壁が溶けていけば、民主主義では統治しきることができず、政治家の在り方も変わってくると言えるでしょう。
中国が、GAFAの国内利用を規制する流れにも、中国共産党を最強の象徴として統治したいという意思の表れではないかと感じます。
また、人類の進化に関する議論についても、人々は環境への適応能力による進化というよりも、統一する世界の中で、勝者だけが生き残ってきたことを体現した「サピエンス全史」の学説を信じるのであれば、経済的には、鎖国的な経済により、需要と供給のバランスを調整するという考え方を大事にしながらも、政治的には、むしろ、壁は取り払われ、発展していく技術革新を積極的に取り入れるべきではないかと私は考えます。
そもそも進化の形は一つだけなのかという疑問についても考える必要があるのではないでしょうか。
民主主義とインターネット社会への向き合い方
それでは、著者が提案する民主主義の向き合い方はどのようなものなのでしょうか。
著者は、3つの提案を行います。
提案①:民主主義の決定権限を狭くすべき

民主主義よりも、立憲主義(憲法を重視する)ほうに、重心を傾けるべきだという提案です。これは、信じたい情報だけを信じ、”嘘”でも安心できる情報を流す象徴を支持しようとする「民主主義のリスク」を防止するためです。
日本国では、民主主義政治のために、「憲法9条」の考え方などに対して、状況に応じてルールが緩くなってしまう場面があります。
形式的には、いいかも知れないけど、実質的には逸脱しているのではないかと、指摘される議論です。
本書の注釈にて、状況に応じて、ルールに対する考え方を変える危険性は高いというような話がありました。
これは、バブル経済下における日本金融機関のルールに対する姿勢からもその危険性を読み取ることができると思います。
日本のバブル経済下では、金利の引き下げにより、企業が借りたくなくても、借りさせるストーリの準備が必要でした。「土地の値段は上昇し続ける」「今、土地を買わない人は馬鹿だ」などの吹聴です。
これは、融資を行う企業側でもマネジメントの部分で影響するものがありました。
代表的なのが、北海道拓殖銀行が挙げられるのではないでしょうか。
北海道拓殖銀行では、とてつもなく厳しいノルマで締め上げて、「営業職」の頑張りを、認めざるを得ない空気が、「審査部門」の審査に対するルールを緩くし、バブル経済崩壊により、不良債権の悪化により、倒産へと向かいました。
このあたりの話は、世界倒産図鑑の中で、詳しく紹介されています。
プロセスを軽視して、営業活動を行っていた山一証券が倒産に向かう話も組織マネジメントの在り方として非常に勉強になるのでお勧めです。
筆者の提案には、立憲主義の尊重により、「民衆の意思だから」を強めたルール運用が緩い政治を見直し、かつ、民衆の意思を先導するような政治家も排除する趣旨があるのではないかと感じました。
提案②:政治を日常に浸透させるべき

これは、選挙などの政治参加を非日常のものから、日常のものにしようという提案です。
民衆の暴走やカルトの信仰により、暴動やテロは世界の各地で起きています。民衆としては、大きい流れに取り込まれることで、安心したいという気持ちや非日常に価値を置いている可能性があります。
なぜこのようなことが起きるのでしょうか。
それは、情報発信の質が低下しているからではないでしょうか。インターネット技術の進化により、一人ひとりが自分の価値観を発信することができるようになりました。また、無料プラットフォームの増加により、発信者との距離も近くなったのも事実でしょう。
フォロワー数の多さが正義と考え、影響力が多いものに価値判断の軸を置きがちです。
しかし、本当に大事なのは影響力なのでしょうか?発信される情報の本質の正しさや真実性という「質」に目を向けるべきではないのでしょうか。
そのためには、今の無料プラットフォームの在り方では、考えない若者がどんどん増え、人の考え方をコピペやリツイートやりポストすることに価値をおくコミュニティからは脱却し、考える力と質を高めたコミュニティ(有料という壁が時には必要)が必要ではないかと問います。
参加者の量を増加させることで、思わぬ方向に向かったインターネットコミュニティの在り方を是正し、今一度質の高いコミュニティを築き、正しい議論を交わし、政治に対しても、正しい在り方で参加していく風土を育てていこうという趣旨があるのではないでしょうか。
正しい政治の在り方を考えるためには、民主主義をあきらめて、グローバルな経済発展だけを重視し、選挙には参加しても無駄だという風土がさらに根付いていけば国家はどのような流れに進むでしょうか。
どんどん何も考えない人たちに迎合して、大局観では価値のない政策が実行されてしまう危険性があるのではないでしょうか。
私たちは、政治への抵抗として、暴動や戦争、テロといった非日常的な方法ではなく、正しい本質に目を向けた日常的な政治参加、つまりは、政治や経済にもっと興味を持とうということですね。
ただでさえ、日本人は、金融リテラシーが低いと指摘されています。学校教育の在り方が悪いのだとか、税金の課税方法が悪いのだと、何かに言い訳を見つけて、逃げ込んでしまいがちです。
誰かが教えてくれないから、学ぶ機会がないというのではなく、一人ひとりが正しい情報を取りに行けばいいのです。書籍やデータ、著名人のスピーチなど検索すれば、触れることができるものはたくさんあるでしょう。インターネットを考えないために使うのはやめましょうという提案とも言えるのではないでしょうか。
提案③インターネットメディアが政治に介入すべき

3つめの提案こそ、本書のタイトルにもなっている「遅いインターネット」の歓迎です。
今のインターネット社会は、「バズる」「エモい」「映える」など、一時的でしかないブームや潮目を読んだ投稿をする参加者が圧倒的に多いように感じます。
何がバズるのか、どうすればフォロワー数が増えるのかと躍起になっている若者は多いのではないでしょうか。
しかし、社会的価値として、大事にすべきは、フォロワー数や自分の思う方向に誘導することよりも、どれだけの人を正しい方向に導けるかどうかに価値を置くべきではないでしょうか。
そもそも、ブームによる影響力は一時的です。半年前に、誰が批判の的になっていたか?、一年前に何がブームになっていたか?と聞かれて即答できる人は果たしてどれだけいるのでしょうか。
正直私はできない側の人間の一人です。
ブームがすぐに過ぎ去るのは、そこに、本質的な価値が存在しないからではないでしょうか。そのツールや考え方に触れ続けることで、生活が向上するのであれば、ブームなどの概念すら存在しないはずです。
報道に関しても、取り上げる速さや情報を持つものが強いというような風土に向かいがちです。不倫報道にどのような価値があるのでしょうか。成功体験の発信がどれほどの人を変えるのでしょうか。
ずるい!や、すごい!あの人は別格だ!と結論づけて、休憩から仕事に戻る若者は意外と多いのではないでしょうか。
著者の第3の提案は、このような側面に目を向けて、情報伝達の速さよりも、正しさや本質に目を向けたリベラルアーツの醸成に目を向けて、騒音からは断絶され、じっくりと自分の頭で考えるためのメディアが存在するべきだという話に着地しているのではないかと感じました。
② 時代はどのように変化してきているか知っておこう
本書のテーマの二つ目として、時代の変化をとらえようというものがあります。これは、民主主義への提案とも連動するものであり、今後のインターネット社会への向き合い方を考え直すきっかけになるでしょう。
四象限で表現される文化
まず、時代の変化を読み解くうえで、大事なのが、四象限による人々の文化の在り方の理解です。
組み合わせる二つの概念として登場するのが、「自分の物語」か「他人の物語」なのか、「日常」か「非日常なのか」というとらえ方です。図表で表現すると、以下の通りです。

それでは、順に見ていきましょう。
第一象限:非日常×他人の物語
これに代表されるのが、劇映画やニュース映画です。20世紀前半に映像技術の増加により発展した文化であり、能動的に情報を取りに行こうとする人たちに受け入れられました。今まで触れることが難しかった表現者との距離を近づき、感情移入がしやすくなることで、受けた感銘を社会で共有することに快楽を覚え、映画を語ることができるのが教養の一部となったのです。
第二象限: 日常×他人の物語
これに代表されるのが、テレビです。映像技術と、20世紀後半に普及した放送技術との融合により、発展した文化であり、受動的な情報吸収の方法として、大衆的に受け入れられることとなりました。テレビだけでなく、、DVDや、Netflixなどのストリーミング配信で日常的に映像作品に触れる人は多いでしょう。RPGゲームを楽しむというのも、こちらに入ってくるのではないでしょうか。
第三象限: 日常×自分の物語
モノからコトへ、価値の基準が移行しているように、人々は、発信される世界観を自分の生活に取り入れて、生活を向上させようという流れにあります。自分の日常を発信することで、常にインターネットやコミュニティに接続していたい、自己実現を承認されたいという欲求にインターネットを用いる人も増えてきているでしょう。
ゲームの中でも、体験に重きを置く、「Wii」をはじめとするエクササイズゲーム、や「ポケモンGO」「ドラクエウォーク」などのAR、映像体験を味わうことができる「VR」は、ゲームを日常的な自分の物語に取り込もうとする流れをとらえたものであると言えるでしょう。
筆者は、この第三象限へのアプローチがいま問われている領域であり、可能性は無限大にあると言います。
「自分の頭でしっかり考えることが、民主主義の危険性に立ち向かう武器にもなる」ということであり、
端的に表現すれば、これは、多くの書籍でも語られていることですが、つまりは、
「自分の人生を生きよう」「大きい空気に流されず、自分の頭で考えよう!」「情報に踊らされるな」
と言い変えることができるのではないでしょうか。
そのためには、、個人と世界を直接、かつ、騒音(他人の物語)無く、繋ぎ、自分の頭で考えさせるためのツールが求められているということでしょう。環境や情報を与え、検索できるようにするだけで、人々が樹種的に動き出すほど、みな優秀でも、合理的でもないからです。
第四象限: 非日常×自分の物語
インターネットの登場により、日常的な出来事の発信が容易となったことで、非日常的なイベント参加への体験を発信することに価値を求める文化です。インターネット技術の発展により、音楽、映像の供給過剰を起こすことで、ライブやフェス、聖地巡礼、映え写真、ハロウィーン、ディズニーランド、謎解き脱出ゲームなど、非日常的な体験を発信し、満足する人は多いでしょう。
メディアの変化

第四象限の中でも少し触れたように、メディアの在り方は変化してきています。19世紀までの文学や絵画というテキスト的な情報発信から、映画やテレビ、動画による映像的な情報発信との融合、そして、現代においては、SNSを活用することにより、立体的な情報発信が行われるようになっています。真実かフェイクにかかわらず、フェイクであっても、信じたい情報であればあるほど、情報を拡散するスピードは飛躍的に高まり、発信者が増加することにより、相対的に価値が低下しているとも言えます。
ある種拡張現実(AR)的な情報発信により、「虚構」も織り交ぜた形で、楽しませようとするメディアが増えてきているのではないでしょうか。これは、メディアが悪いではなく、人の本能を刺激したり、民主主義政治を行うためには、必要なことなのでしょう。
つまりは、発信者を非難し、炎上させたり、ブームの潮目を読んで何も残らない活動をするのではなく、自分の頭で考え、自分の生活を向上させていくための姿勢が問われているのではないかと感じました。
活躍の定義に対する勘違い

社会活動における「活躍」
アメリカの就職人気企業ランキングでは、低報酬のNPO団体が高額報酬のテクノロジー企業の人気を上回ったという大きな流れがありますね。これには、人に貢献する実感を得たいという「自分の物語×日常」を求める思想が根付きはじめた証拠であると感じています。
「活躍」の定義や価値観が大きく変化していきているということでしょう。
お金や社会的地位や安定だけが全てではないということですね。
社会活動の中では、「活躍」は「自己実現」という向きがあるといえるでしょう。
経済活動における「活躍」
それでは、金銭的な価値としての経済活動における「活躍」の定義について考えてみましょう。
本書の言葉を借りれば、
「資本主義下における個人の経済的な価値とは、正確にはその人の社会的な評価に応じて金融機関や投資家から調達できる(借金できる)が国のことに他ならない」
というのは、日本国でも本質的には同じでしょう。
世界観を語ることで、クラウドファンディングからの資金調達や良質なサービスやツールを開発することで、ベンチャーキャピタルや金融機関から資金調達を行ったりという話は「活躍」の話として、多く取り上げられるところでしょう。この評価は正しいと思います。
つまりは、その人がどれだけの人を動かし、どれだけのお金を動かすことができているのかということだけが、「活躍の指標」ではないかということです。
「活躍」に対する勘違い
インターネットコミュニティに参加する人たちの中には、フォロワーの数こそ資産であり、いいねの数こそ、活躍の評価だと考える人たちは少なからず存在するでしょう。
共感にも、人を動かすことができる共感や、ただただ、人に石を投げつけるためだけの共感などいろいろあります。すごい!といくらたくさんの人に思われても、人を動かし、社会に貢献できないようでは意味がありません。
つまりは、「活躍」とは、「自己実現」であり、「どれだけの人を動かすことができるようになったか」であると考えます。
他人の意見を流用したり、社会的に価値のない情報を発信したり、いいねの数を集めることが全てではないということです。価値のある情報発信により、再生回数やいいね!、閲覧数を積みあげるのは歓迎されるべきですが、煽り動画や煽りツイートが歓迎されるべきなのかは疑問です。
結局は、自分の頭で考え、受け取り手視点で価値がある情報なのかと考える姿勢が大事なのでしょうね。
人類(民主主義)へのアプローチの違い
本書では、対比が複数登場しますが、現代人類へのアプローチの違いとして、二つの立場が紹介されます。
結論的には、どちらの立場が正しいということではなく、どちらの立場にも弱点があるため、やはり、自分の頭で考えるためのメディアが必要というところに着地します。
民衆に迎合するドナルド・トランプとディズニー

一つ目は、トランプとディズニーです。
こちらの立場としては、大衆に歓迎される情報や作品を発信することで、自らの政治やビジネスに活かそうという姿勢です。トランプが、フェイクニュースを流して、信じて安心したい民衆を味方にし、選挙に勝利したように、
本書では、マーベルヒーローの集大成である「アベンジャーズ エンドゲーム」は空前の大ヒットしたことになぞらえて、これが、多様性の歓迎や、旧時代のアメコミファンも映画館に呼び込むためのコンテンツだったのではないか、民衆を味方につけるディズニーという形で説明が展開します。
つまりは、ディズニーでは、民衆を味方につける戦術こそ違うものの、女性ヒーローが活躍する「ワンダーウーマン」や、黒人ヒーローが怪物を打ち倒す「ブラックパンサー」など、多様性を歓迎し、より広い範囲に作品の支持基盤を強めることを進めています。最近でも、リトルマーメイドの主演女優が、黒人に決まったというニュースがありましたね。
私は、トランプとディズニーを同じグループにしているのは、非常にユニークだなと感じました。すごくわかりやすく立場をとらえることができるからです。
ディズニーは、時代に即した民衆への迎合をビジネスとして行っているので、何の問題もありませんが、トランプの姿勢は、世界を良い方向に向かわせているのかという疑問視が本書ではなされています。
つまりは、民衆に迎合するアプローチの弱点は、革新や成長をもたらさず、停滞してしまうリスクにあるということですね。
優秀な人たちとの格差を広げてしまうグーグル

次に、グーグルのアプローチです。
グーグルは、分散した情報を検索プラットフォームを提供することで、情報を整理し、検索して、人々が情報に触れやすいツールを提供しました。グーグルの当初の理想としては、「人々は、情報に触れることができるようになれば、自然と良質な情報を選び成長していくはずだ」という思想が根底にあったのでしょうが、人々はそこまで合理的でも、優秀でもありませんでした。
グーグルのツール提供により、その数あるツールを使いこなすことができる優秀な人たちと、情報に触れることができるだけでは、何も行動しない人たちとの格差を広げてしまい、これが翻って、民主主義の危険性を増大してしまっているというところに弱点があります。みな、格差による不安から目をつむりたいのです。
グーグルマップの使い方にも表れる通り、民衆は、「考えるためにインターネットを使う」わけではなく、「考えずダイレクトに知りたい情報だけ知るためにインターネット」を使うということです。つまりは、考えようというきっかけを与えなければ、何も始まらないということですね。
そこで、グーグルとしては、情報を正しく活用するには、まず、民衆の視野を広げ、世界に対する興味を高める必要があると感じたのか、社内ベンチャーから独立したナイアンティックを通じて、「ポケモンGO」をリリースし、強引に民衆の視点を、インターネット内から外へ向かわせたと説明されています。
これは、現実を見る目を鍛えなければ、何も見えてこないからであり、何も見ようとしないからです。
「ポケモンGO」の人気は、「ポケモン」というキャラクターを用いることで、強制的に視野を広げ、旅行や観光につなげ、ようという狙いがあったわけですが、くしくも、「ポケモン」を集めることが価値となり、ポケモンついでの観光というよりかは、ポケモンのためだけの観光を引き起こしてしまっているのも事実です。
このように、民衆は、予想通りには、動いてくれませんし、合理的ではありません。むしろ不合理であることも予想していくことが、グーグルほかテクノロジー企業に今問われているとも言えるのではないでしょうか。
③ これからの時代に求められるインターネットや共同幻想論との向き合い方を考えよう
本書のサブタイトルにもなっている21世紀の共同幻想論について考えるのが、第三のテーマです。
吉本隆明が語った共同幻想論とは?
共同幻想論とは、吉本隆明氏が提唱した「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の3つの幻想が、人間がその世界を認識するためには機能するという考え方です。
自己幻想
自分自身に対する像であり、自分はこうありたいという自己実現の幻想。SNS的に言えば、ファイスブックやInstagram。
対幻想
1対1の関係について、二者はこのような関係性にあるのだと論じる際の幻想。SNS的に言えば、LINE。
共同幻想
集団が共有する目に見えないものに対して属していたいと考える幻想。SNS的に言えば、Twitter。誰か誰かを支持ているという話や、こんなやり取りがあったという 複数の対幻想が組み合わさって、 共同幻想が過剰に価値を持つことがあり、それが、古代の宗教であり、現代の哲学であると説明されています。
吉本隆明

共同幻想論の原書には、触れていませんが、吉本隆明氏の語った背景には、学生運動や政治運動により、「共同幻想」に支配される若者が、その共同幻想から脱出しようとする社会の動きがあったようです。その際に、対幻想(ここでは、配偶者や家族)を大事にしようとする考え方の後押しをしたということですね。
つまりは、社会に歯向かわないのは、家族を守るためであり、「逃亡」や「敗北」ではなく、「成長」であり、「自立」なのだというよりどころを作ったというわけですね。
しかし、自立や対幻想に向かった結果、想定外のことも起こりました。それは、ハングリー精神の低下です。家族を守ることを言い訳にすることで、職場や社会などでは、「普通の」や「人並み」の考え方に終始し、「労働組合」や「PTA」「派閥」という見えない空気に取り込まれる形で、共同幻想に取り込まれる形に流れました。つまりは、同じ流されるのでも、主体性のある種積極的な共同幻想から、主体性のない消却的な共同幻想に向かい、経済成長が停滞する要因を作ってしまったというわけですね。
このような「空気」による支配は、対幻想での振る舞いと、共同幻想での振る舞いというように、多重人格が歓迎される社会を生んでしまいます。むしろ、共同幻想による「空気:の支配が、社会を制圧してしまいます。また、制御しきれないコミュニティが存在することで、「建前」と「本音」という多重人格を生むのは、SNSでも同じであると言えますね。
その悪い芽が、主体性や多様性が重んじられ、人口減少や高齢化が進む現代において、顕在化してきているのではないでしょうか。
糸井重里とD2Cブランドの成長

吉本氏の後に、日本の社会に対して、うまくアプローチしたのが、糸井重里氏だと説明されています。
現代では、他人の物語から、「日常×自分の物語」という第三象限に向かう流れがあるように、「モノ」から「コト」という流れに向かっています。
なぜなら、モノの消費というのは、あくまで他人がつくったものを所有し、身に着けるという「他人の物語」を歩んでしまう側面があるためです。
糸井氏は、モノからコトへ(消費社会から情報社会へ)と向かう世界に対して、「気持ちのいい進入角度とほどよい距離感」の提示(本来インターネットが活用されるべき真の姿)をしているというわけです。
糸井氏は、自己実現による承認欲求から、自己幻想へと回帰する人々に向けて、「モノ付きのコト」を用いてアプローチすることも忘れていません。
「モノ付きのコト」の提供により、世界観をアピールし、自分の日常に取り入れてもらうことを主眼におく、D2Cの成長を後押ししている側面には、自己幻想への回帰という側面もあるでしょう。
[getpost id=”1376″ title=”コト付きのモノとは” target=”_blank”]
”真”に自立すべきは自己幻想

体験の発信に価値を置く、今日の情報社会とは、自己実現や自己幻想の時代なのだと説明されています。
つまりは、消費社会から情報社会へ。
さらにいえば、キャラクター的よりどころ(天皇など)に依存する消極的共同幻想から、反乱活動に象徴される主体的共同幻想へ、さらに、「空気」による支配に象徴される消極的共同幻想へという流れがあり、「空気」に支配されないという自己実現的自己幻想へと向かい最後に、この自己幻想の集合体である共同幻想がインターネットコミュニティを支配するようになりました。
忘れていはいけないのは、現代の共同幻想は、自己幻想の集合体でしかないという側面です。
したがって、私たちは、自己幻想からの自立をし、過剰な自己幻想を抑制(本当にそんな存在にならないといけないのかという自問)し、世界に対して調和的に関係し続けることが、いま求められているのだと説明されています。
発信者の価値の低さが世界を弱体化させてしまう
インターネットの技術の進歩により、人々は、情報発信が身近になりました。プラットフォームが誕生することで、人々はわざわざブログを立ち上げる必要性もホームページを立ち上げる必要性も低下したというわけです。
この発信者の数の増加は、果たしてどれだけの価値をもたらしているのでしょうか。
発信者の中には、嘘の経歴や本当は実績や経験がない人が、あたかも自分の体験した話のように、発信している場面も少なからずあるでしょう。また、社会的には役の立たない情報を発信している人もいるでしょう。
そんな溢れ、流れていくだけの情報にうんざりして、「デジタルミニマリスト」というプラットフォームをシャットアウトしていくという考え方すらも生み出してしまっています。
量の増加の後に、良質なものだけが残るのが、市場原理なのかも知れませんが、淘汰される仕組みがない、インターネットコミュニティにおいては、「炎上するかしないか」「フォロワー数を増やせるかどうか」に軸が移り、毎日情報量は積みあがっていく一方なので、質の追究に量の減少が追い付いていないのが、現状です。そのためには、ある種断絶され、騒音をなくしたテーマコミュニティも必要であるというのが、本書の着地です。騒音から断絶されたテーマコミュニティこそ、「21世紀に求められる共同幻想」ということでしょう。
これからのインターネットの役割とは?
それでは、これからのインターネットの役割とは何かを考える必要がありますね。騒音をなくし、受信者の質も発信者の質も高いコミュニティをつくり、速さではなく、真実性に重きを置いた「遅いインターネット」が求められているのだと、着地していくのが、改めての本書の結論となります。
インターネット技術の発展は、便利な世の中へ向かわせましたが、「便利は人の頭を思考停止させる」という考え方があるように、正しい教養を身に着け、激動の変化を迎える日本社会にて歩いていくために、インターネットへの向き合い方についても、考えていく必要があるということですね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
事実の一側面を観察した一人ひとりが、その事実を正しく捉えるためには、知識が不可欠であるという話と逆説的ですが、持っている価値観や、知識により、この書籍の読み方も変わってくるでしょう。
したがって、読み方は一つではないですし、この記事は”真”の要約の類ではないと思います。
楽をせずに、しっかり問題に触れて頂くことを改めて推奨します。
本書に触れて、私が抱いた価値観や意識した教養の話については、以下の記事にてまとめておりますので、ぜひこちらも確認頂けると幸いです!
ではまた!
まとめノート
税理士 ヒロ
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